自然と球技と物理学と仏教の教えと

自然を愛する僕だが、自然と球技と物理学と仏教の教えが、僕の中で一連でつながったので書こうと思った。

僕は球技が好きな子供だった

僕はボールを使って遊ぶことが好きな子供であった。

小学校の頃は、ドッチボール、キックベースなどでよく遊んだ。

小学校3年生からの3年間は、少年野球のチームに入り、野球をやった。

高校3年間はバレーボールをやっていた。

大人になってからも、4年間ほど草野球チームに入れてもらい、再び野球をやった。

何故、僕はこんなにも球技が好きなのだろう。

球技が楽しい、面白い、好きと思っている瞬間に僕が何を感じていたか、思い出してみた。

それは自然や人との関係性の体感である。

バレーボールを例にとって説明しよう。

バレーボールでは2人一組でスパイク、レシーブ、トスを繰り返す対人という練習がある。野球でいうキャッチボールのようなものだ。TVでも試合の前のウォームアップで選手達がやっている練習だ。

高校時代によく対人練習に付き合ってくれた伊藤君を例に持ち出すと、

僕がスパイクを打つ、伊藤君がレシーブする、ボールが放物線を描いて僕のほうへ返ってくる、この時ボールは地球の重力に引っ張られ、自然界の物理の法則に従い僕のほうに返ってくる、僕がトスを上げる、またボールが自然界の法則に従い、伊藤君のほうに返っていく、伊藤君がスパイクを打つ、僕がレシーブする。それを繰り返す。

とこんな感じだ。

そう僕は対人の練習をしながら、

自然界の法則や人との関係性を体感していたのだ。だから楽しいし、生を実感できる。

もう1つ野球を例に出そう。

僕はセカンド、ショートなどの内野を守ることが多かったが、時々外野の守りもやっていた。外野での守備では、フライやライナーが落下する場所を予測しながらボールを追いかける。風の影響も受ける。この時も、重力や物理などの自然界の法則通りにボールの軌道が決まり、自然界の風の影響なども受けながら、時には自然界の太陽の光がまぶしいと感じながら、ボールを追いかける。

そう、野球をやることで僕は自然との関係性を体感していたのだ。

僕は数学と物理学が好きな学生であった

次は物理学の話に移ろう。

僕は数学と物理学が好きな学生であった。また得意な科目でもあった。

何故、僕は数学や物理学が好きなのだろう。

僕が、どんな時に数学や物理学を面白いと感じていたか、思い出してみた。

それは、数式が自然界の法則を表現しているから

数学で最初に衝撃を受けたのは、ピタゴラスの定理

有名な三平方の定理である。自然界のすべての直角三角形が、この定理(aの二乗とbの二乗を足すとcの二乗になる)で表現できるという。

僕は定規で幾つもの直角三角形の長さを測り、数式を当てはめてみた。

なんと、すべての直角三角形が定理の通りになっているではないか。

すごい、すごすぎるぞ。僕は心から感動してしまった。

それから僕は数学を夢中で勉強するようになる。

僕が子供の頃、ギリシャ哲学に憧れていたのも、古代ギリシャの数学者であり哲学者でもあったピタゴラスの影響もあったのかもしれない。

ちなみに高校生の頃には、微分積分に感動することになる。こんなに面白いことを考える人がいたことに関心した。

物理学が面白すぎる

数学と同じように、僕は物理学の数式にも魅了されていく。

なんと、地球の引力が数式で表現されているではないか。万有引力の法則である。

なんと、野球の話にもあったボールの放物線を表す数式が記載されているではないか。

僕は物理学も夢中で勉強するようになった。

このような感じで、僕は中学生の頃から急に勉強をするようになった。

ちなみに小学生までの僕は、外で遊んでばかりで学校の授業と宿題以外は勉強した記憶が全くない。妹は勉強机に座っている僕を見て驚いたという。小学生頃の僕からは、僕が自主的に勉強する姿など想像もできなかったに違いない。

勉強というと努力している感じに聞こえるが、僕は全く努力をしていない。

数学や物理学という学問が面白いからやっていただけのことである。

その根底にあるのは、数式が自然界の法則を表現しているからだと思う。

もちろん、ニュートンも言っているように、数式は自然界の全てでなく、ほんの一部分を表しているに過ぎない。自然は人智よりはるかに大きいものである。でも僕にとっては、そのほんの一部分を見せてくれるだけでも十分であった。

《参考文献:ニュートンの言葉》 私は、海辺で遊んでいる少年のようである。ときおり、普通のものよりもなめらかな小石やかわいい貝殻を見つけて夢中になっている。真理の大海は、すべてが未発見のまま、目の前に広がっているというのに。

仏教の教え 三法印

最後に仏教の話をする。

仏教の基本的な教えを三法印というが、諸行無常、諸法無我、 涅槃寂静の3つがある。

このうちの 諸法無我 が、自然や人との関係性に少し似ていることに、今日気がついた。そこでブログの記事にしようと思った。

自然と球技と物理学と仏教の教えが僕の中でつながったので記事にしようと思った。

《参考文献:ネットの検索結果》

・諸法無我―すべては繋がりの中で変化している
全てのものごとは影響を及ぼし合う因果関係によって成り立っていて、他と関係なしに独立して存在するものなどない、という真理です。
自分のいのちも、自分の財産も、全て自分のもののように思いますが、実はそうではありません。
世の中のあらゆるものは、全てがお互いに影響を与え合って存在しています。自然環境と同じように、絶妙なバランスのうえに成り立っているのです。
こう考えると、自分という存在すら主体的な自己として存在するものではなく、互いの関係のなかで”生かされている”存在であると気がつきます。

以上、終わり。