人生の山登り 本編「人生の目的について」

人生の目的、生きる意味について、子供の頃からずっと考え続けていた。20年ほど考え続けた30才の頃に、ようやくその答えが分かった。山が答えを教えてくれたのである。この問題は思考では分からない。思考とは別のアプローチで導かれるものである。山登りにそのヒントが隠されていた。その答えの確かさを説明(証明)するために、論理的思考の代表である帰納と演繹を参考にして導いた。概略的には、帰納的に人生と山登りの共通点を見出し、次に人生と山登りの前提条件を合わせた上で、(人生という抽象より具体的で考えやすい)山登りのほうで、前提から答えに向けて演繹的に論理展開し、出した結論を再び人生に戻すという手法を用いた。それについて記載する。

命題:人生の目的とは何か、生きる意味とは何か

哲学の普遍的な問いである。僕が書きたかった哲学の1つである。

僕はこの命題を自分の頭で考え続けて、自分なりの結論を出した。

答えによって、人生で進む方向について迷いがなくなった。

自分の道から外れなくなった。自分の使命に、一歩一歩、着実に進めるようになった。

僕はこの問題について、各時代で問われ続けてきたこの命題について、子供の頃から、ずっと考え続けていた。どうしても答えが知りたかったのである人生の目的や意味が分かれば、人生に迷わない、進むべき道を間違えないと考えた。小学5年生頃(約11才)から考え始め、何度も何度も考えても分からず、それでも考え続けた。中学生になっても分からなかった。高校生になっても分からなかった。大学生、社会人になっても分からなかった。考えても考えても、何度考えても分からなかった。そして、30才頃のある瞬間に、ようやく、その答えが分かった。山登りの最中にインスピレーションが湧いて、その答えが分かったのである。山が答えを教えてくれたのである。20年の歳月を要した。だが、自分の頭で考えて自分のオリジナルの答えを導き出したのである。その結論は今も変わっていない。

それについて、記載したい。

命題の答え

最初に結論を述べる。

「答えがないことが、答えである」

「この問題の答えは、考えても分からない」

というのが、答えである。

考えても分からないが、答えに到達する方法は発見した。思考とは別の手段でないと答えが得られないことが分かった。

結論に導いたアプローチ(命題の証明)と、答えを得るための方法(思考と別の方法)について記載する。

1.命題の答えの証明

帰納法と演繹法という、2つの数学的論理思考を使用する。また数学の基本である等式による置き換えも行う。

1.1 山登りと人生を帰納的に考える

帰納法とは、事実や事例から共通点や法則性を見出して、結論を導く論理的推論方法である。数学で使う代表的な論理思考の1つである。詳細はgoogleで参照できる。

僕は、山登りの最中に、山登りと人生が、この命題において、共通点が多いこと、似ていることに気が付いた。山登りは目的地に向けて、目の前の道を歩き続けている。上の方向に、先の方向に歩み続けている。人生も目的地に向けて、人生を先へ前へ向上させながら、日々の目の前の生活をしながら進んでいく。共通点が多い。

それならば、人生という抽象的なほうで考えるより、人生を山登りに置き換えて、山登りのほうでこの命題を考えたほうが、答えが出やすいと考えた。

置き換えとは、数学的には等式のことであり、等式を並べて論理展開することは、数学の基本的な手法である。これもやろうと思った。

つまり、人生と山登りの前提条件を整えた上で、山登りについて考察し、山登りのほうで論理展開することで、その答えを導きだそうと考えたのである。

1.2 前提条件を整える

数学の証明では、演繹法では、前提条件の定義が重要である。

論理が同じでも、前提条件が違えば、違う結論が出力される。

この証明では、山登りの前提条件を、人生に合わせる必要がある。

前提条件1:初めて登る山である。

人生は1度きりである。2度目の人生はない。なので、登る山も2度目ではない。初めて上る山であることが前提条件である。

前提条件2:山の情報は事前に何も知らない

人生にガイドブックはない。なので、この山登りでは、ガイドブックも地図もない。山の高さも、道順も分からない。山について、事前に何も情報がないことが前提条件である。

1.3 山登りを演繹的に考察する

演繹法とは、一般的・普遍的な前提から段階的に論理展開して結論を導く論理的推論方法である。数学で使う代表的な論理思考の1つである。詳細はgoogleで参照できる。

1.2の前提から山登りを演繹的に展開して考察する。

(1)山の麓で目的地を考えてみる。

山登りを開始する。まず山の麓で、山の目的地、山頂やその道順を考えて、答えが分かるだろうか。分からない。

人生に置き換えると、人生も同じである。人生を始める前から、人生の目的や生きる意味、目的地を考えても分からない。考えても人生の目的など分かるわけがないのである。それらは、自分の人生を生き切った後に、後から分かることである。順番が逆なのである。先に考えるのでなく、後から分かるものである。

(2)どの道を進めばよいか

山登りに戻る。それはそうである。山頂や目的地は山の麓で考えても分からない。登って行かないと見えてこない。ではどの道を進めばよいのだろうか。地図もガイドブックもない。

簡単である。目の前に見えている道を進めばよい。先に進めばよい。上の方へ登っていけば、だんだんと山頂へ、目的地へ近づいていく。先のほうの道順まで知っている必要はない。目の前の道を進めばよいだけである。

道が分かれている。どちらに進めばよいか。自分の足で歩ける道を選択すればよい。

登山家しか登れないような、自分の足で登れないような道を選択してはいけない。

この選択は重要である。自分の道を選ぶのである。もし複数の道を選択できるのであれば、自分の特徴を活かせそうな道を選べばよい。

人生に置き換えると、人生も同じである。自分の進むべき道とは、自分に出来ることをすればよいのである。自分の特徴を活かせそうなことをすればよいのである。今日、今月、今年くらいのスパンで、自分がやるべきと考えたことをやり続ければよい。遠い先のことまで、考えても分からないことまで、考える必要はない。

出来ることをやり続ければ、目の前の、今やるべきことをやり続ければ、上の方へ進んでいく。自然と自分の使命や行くべきところへ近づいていく。

注意したいのは、他人の道を、自分に出来ない道を、進んでしまうことだ。山登りの例でいうと、登山家しか登れない、自分の足で登れない道を選んでしまうことだ。

人それぞれ役割が違う。特徴も違う。出来ることも違う。

自分に出来ないことは、自分の使命ではないということだ。それは他の人の使命であって、他人に任せておけばよい。

よくあるのが、他人の人生がうらやましくなり、背伸びしたり、自分の役ではないことをしてしまうことだ。隣の芝が青く見えてしまうことだ。それよりも、自分の特徴を活かすことを考えたほうがよい。

(3)目的地

また、山登りに戻る。

道の選び方は分かった。では目的地はどこに在るか。それは、自分が登れるところまで、登った場所が目的地となる。山頂の場合もあれば、山頂まで登る力がなく、山の中腹の場合もある。富士山でいうと、8合目あたりが目的地になることもある。

目的地としての条件は、自分の力を出し切ったか否かである。

まだ先へ、上に登れる力があれば、目的地はもう少し先にある。

登る高さは、人それぞれでよい。3000mの山に登る人もいれば、500mの山の人もいる。自分に出来ることをやり切れば、そこまででよいと思う。

この証明の最後に、人生に置き換える。

人生の目的とは考えても分からない。自分の特徴を与えられた能力を活かし、一歩一歩、先へ前へ上へ、進んでいくと目的地に近づいく。そして、自分に出来ることをやり切った先に、登り切った先に、自分の人生の目的が書いてある。そこまで行かないと分からない。そこまで登らないと分からない。山の麓や中腹で考えても分からない。

人生の目的とは、 そういう類のものである。答えの証明になっていると思う。

2. 著名な心理学者との答え合わせ

この答えは、僕が30才の頃に考えたものであるが、最近読んだ本の中で、ある著名な心理学者と答え合わせができた。「夜と霧」の著者フランクルである。フランクルは、フロイト、ユング、アドラーに次ぐ、第4の巨頭と言われる心理学者で精神科医でもある。またナチスの強制収容所から奇跡的な生還を果たしたユダヤ人という壮絶な経験をした人でもある。歴史的な人物なのでgoogleすれば、どんな人か分かる。

そのフランクルと僕の答えが一致していた。答えを出してから、約20年近くの時を経て、答え合わせが出来たのである。

答えは一致しているが、答えへのアプローチはフランクルと僕で違う。山登りを論理展開するアプローチは、僕が考案したオリジナルである。

僕は2021年の秋頃に、久しぶりに哲学書でも読んでみようかと、そういう気になった。昔、散々読んだ、ショーペンハウアーやニーチェより、読んだことのない人のほうが新しい発見があると思った。kindleで検索していくと、フランクルの「それでも人生にYESと言う」という本にたどりついた。とりあえず読んでみた。そこにはこう書いてあった。

《参考文献(それでも人生にYESと言う:フランクル著の第1章から抜粋)

私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、初めから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずその時その時に出す問い、「人生の問い」に答えなければならない存在なのです。 

――ここまで参考文献》

「そうだよね。僕もそう思うよ。問うてもこの問題は分からない。方法が誤っているよね」と僕はフランクルに共感した。

3.続き

次の記事(人生の山登り 補足編「事例考察 イチロー山、大谷山、青い鳥など」)では、幾つか事例をケーススタディ的に取り上げて、具体的に補足説明する。

以上。