自由についての考察

会社を退職後、セミリタイヤ的な生活をするようになりました。自由のよさがある一方で、難しさも感じるようになりました。自由について様々な視点から考察したことをまとめます。

1.孤独との関係

孤独との関係について思うことがあります。
他者からの束縛という観点では、束縛される時間が多いと自由な時間は少なくなります。しかし束縛されている間は、半強制的に他者との関係性があるので孤独を感じることは少ないかもしれません。
一方で他者からの束縛がない時間は、自由な時間にすることができます。しかし物理的な他者との関係性はないので、孤独を感じやすいかもしれません。孤独感は主観的なものなので、1人でも孤独感を感じないことはあるとは思います。物理的に一人でも共同体に属している感覚を持つ場合や、没頭する作業がある場合は、孤独感をあまり感じないかもしれません。孤独自体は特に否定しませんが、自由になるほど、孤独と向き合うことも多くなる気はします。

哲学者ショーペンハウワーは、「だれもが完全に「自分自身である」ことが許されるのは、独りでいるときだけだ。自由でいられるのは独りでいるときだけなのだから、およそ孤独を愛さない人は、自由をも愛さない人なのだろう。」(1)と述べています。
自由と孤独は関係が深そうです。

《参考文献》
(1)ショーペンハウアー. 幸福について (光文社古典新訳文庫)(p.159) . 鈴木芳子訳. 光文社. Kindle 版, 2018

2.退屈との関係

自由な時間が増えると、退屈を感じることが増えました。暇や退屈について考えることが増えて、昔読んだことのある「暇と退屈の倫理学」という本が気になって再読してみました。その本で印象に残ったことですが、20世紀最大のドイツの哲学者の一人といわれるマルティン・ハイデガーは、退屈を人間が自由であることの証拠と考えていたそうです。1つ本書から引用します。「退屈こそは人間の可能性の現れである。ハイデッガーはそう考えた。その可能性とは自由のことだ。人間は退屈する。いや、退屈できる。だからこそ自由である。」(2)

確かに、自由とは選択することができることでもあると思いました。
自由がない場合は、やることが決められて選択の余地はありません。決められた活動は、外部環境や他者から与えられます。
一方で自由な場合は、自身で活動を選択する必要があります。適切な活動を選択できれば、退屈することはないと思いますが、何か活動をしたいが何も選択できていない状態も発生しえます。そのような時に退屈を感じるのかもしれないと思いました。

《参考文献》
(2)國分功一郎. 暇と退屈の倫理学(新潮文庫) (p.233). 新潮社. Kindle 版, 2022

3.型の中の自由

例えば野球を例にとると、一定のルールがあり、その中で投球でストレートを投げるかカーブを投げるか、配球などの自由があります。ルールなしで、完全に自由だとかえって不自由です。どうしていいのか分かりません。やはり一定の型や、ほどほどの拘束はあって、その中で自由がある位がよいのかもと思うことがあります。

生活における型とは、習慣やルーティーンや予定や適度な仕事や勉強など、ほどよい拘束を与えるものと思います。どの程度の自由度と拘束具合がよいかは、人によるかもしれません。自由と拘束の二項対立でなく、自由と拘束のバランスをちょうどよい所にもっていければよいのかもしれません。

以上。

投稿者: おか

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