数学と哲学は類似点が多いと思う。特に論理的、抽象的に考える点は、共通点が多い。
僕が学生の頃、最も得意な科目は数学であった。その次が物理である。
僕が私的に、最も惹かれる学問は哲学である。趣味で哲学者の本を読み、文豪の小説から著者の思想を読み取り、自身でも思索を重ねてきた。
僕はそもそも学問好きだが、その中でも、数学と哲学には特に思い入れがある。
数学と哲学の類似について、対比しながら書きたいと思う。
この記事で主張したいことや、読む人のメリットとしては、論理的思考は数字や数式だけにとどまらず、日常の課題に応用可能ということである。論理的思考というと、なんだが難しそうだが、原理はシンプルと考える。
社会に出れば様々な課題がやってくる。そんな時に何かの参考になればよいと思う。
1.数学の等式と、文章の言い換え
数学の等式
まず数学の基本である等式(=)について述べる。
等式とは、等号(=)の左辺と右辺が等しいことである。
数学は数字や数式が、左辺と右辺が同じもの、等価であるものをつなげていく。
例えば、A=B+C。B=D。C=F。F=X-Dと等式をつないでいくと、
A=Xが導かれる。最初の式からはAがXとは分からなかったが、等式をつないでいくことで、AがXであると分かる。それが答えであり、発見となる。
文章の言い換え
これを論理的な文章に対比する。数字を言葉に、数式を文章にする。
文章内で数学と同じように、言葉や文章を等式をつないでいくと、思わぬ答えや発見にたどり着くことがある。それが結論や見解となる。
言葉や文章の等式とは、言い換えのことである。
僕の論説では、言葉や文章の言い換えがよく登場する。例えば、〇〇とは、△△のことである。〇と△は、本質的に同じことである。〇は△と言うこともできる。
こうやって、言葉や文章も、数学と同じように、等式でつないでいくと、これまでと違った結論や見解が導かれることがある。
これは、課題の検討に、有効な手法であると考える。論理的思考の応用例の1つである。
2.数学の証明問題と、論理的文章
数学の証明問題
数学の証明問題は、下記の流れで解くと思う。
1.仮説(証明すべき問題)
2.前提条件
3.前提条件から論理展開
4.結論(仮説の証明)
論理的文章
これを論理的な文章に対比する。数字を言葉に、数式を文章にする。
数学の証明問題の流れは、論理的な文章の構成と、同じと思う。
例えば、僕の論説は、数学の証明問題と同じ構成で記載している。
仮設を数学の証明問題を解くように、文章で論じている。
悪の役割については、悪の役割と、明治維新における西洋列強の役割を、帰納的に共通点を見つけて、論理展開した。
人生の山登り 本編「人生の目的について」は、人生の目的に向かう姿と、山登りを帰納的に共通点を見つけて、論理展開した。
他の論説も、概ね同様の流れと思う。
小論文の構成を、「仮説→前提条件→論理展開→結論」で記載すると、数学の証明問題と同じような構成になる。
これは、論理的な文章の作成に、有効な手法であると考える。論理的思考の応用例の1つである。
3.学問的考察
3.1 数学者と哲学者
歴史を見ると、数学者であり哲学者でもあった人物は多い。
一例では、ピタゴラス、パスカル、デカルトなどがいる。googleすれば、もっと沢山出てくる。18世紀を代表する哲学者にして近代哲学の祖といわれるカントは、哲学の大学教授になるまで(遅咲きで46才頃)、大学の講師や家庭教師で数学や物理を教えていた。過去の歴史からも、数学と哲学は近い学問ではないか思われる。
3.2 理系と文系
数学は理系で、哲学は文系と思う人がいるかもしれない。
文系理系という分離を少し批評したいと思う。
僕は文系理系というのは、受験や産業上の都合であって、学問的な都合でないと考えている。現代は産業構造が高度に細分化され細かく分かれている。大学の学部や学科も細かく分かれている。進路は分割された分野から選択しなくてはならない。
そこで文系理系という、まずざっくりした区分けをして、進路を選択しやすくしたものと推察する。学問的には、文系と理系を分ける必要はない。
ゲーテは文豪でありながら、自然科学者(色彩論等)でもあった。文系理系で分かれていない。
数学と哲学も文系理系という都合では遠く離れてしまっているが、学問的には本来近い存在だと考えている。
4.論理的思考
日常の課題にも使えそうな、論理的思考について記載する。
4.1 何故という問いかけ
論理的であるとは、どういうことか。
【例文】AはBである。なぜならば、理由はCだからである。(A、B、Cは文章とする)
ここで、論理的か否かを決定するのは、AがBということではなく、その理由や根拠のCである。Cの妥当性である。
理由や根拠を論理的に説明できれば、AがBであることを論理的に説明したことになる。理由や根拠を正しく説明できれば、AがBであることを、他者が納得する。つまり、何故、AがBであるかを考えることが、何故という問いかけが、論理的思考の基本になる。
賢い子供は親を質問攻めにするという。「なんで、なんで」と理由を聞いてくる。無視もできないし、応対する親も大変である。
ボクも幼少の頃から常に「何故」があった。幼少のボクは親を質問攻めにしなかった。ボクは自分を質問攻めにした。
例えば、何故、船が水に浮かぶのか、幼少のボクはずっと考えていた。オモチャの船を風呂に浮かべてずっと考えていた。7~8年間くらいは考えていたが、結局分からなかった。中学生の頃、アルキメデスの原理を学校で習い、その答えが分かった。7年も考えて自力で発見できなかった悔しさを今でも覚えている。何故、アルキメデスに発見できて、ボクには発見できなかったのか。1週間くらい考えていたが、結局、よく分からなかった。
今、振り返ると「何故」という問いかけは、論理的思考能力を養う上で大事なことであり、基礎になっていると思う。
4.2 代表的な論理的思考
代表的な論理思考に、帰納法と演繹法がある。詳細については、Googleで沢山ヒットすると思うので、ここでは要点と私見だけ述べる。
4.2.1.帰納法
帰納法は複数の事象から法則性を推測する手法である。
例えば、コロナ禍で、「カラオケで感染者が多い」「ライブで感染者が多い」「人が多く集まる場所で感染者が多い」といった複数の事象やデータから、「発声」や「密室」や「密集」が、「感染」に関係しているのではないか、といった法則性を推測できる。
証明はできないが、複数の事象から法則性を推測し、法則性の解明に役立つ。
法則は各事象に実データとして発現する。そのデータから逆算し、法則性を推測するのが帰納法であり、その成果として仮説が導かれる。
仮説を見つける上で、有効な手段である。仮説がないと、証明や検証も始まらない。「はじめに仮説ありき」と思う。
帰納法でポイントとなるのは、共通点を見つけることである。人が帰納的に考える時、頭の中にあるデータから共通点を探していく。頭の中のデータや引出しは多い方がよい。人の脳も神経回路のネットワークであるという。知識や経験などの引出しが多いほうが、共通点を探す範囲が広がる。
ちなみに、高校数学で習う数学的帰納法と、自然科学や哲学で使う上記の一般的な帰納法は違うものである。数学的という言葉をつけて区別している。数学的帰納法は、演繹的な要素のほうが大きい。数学では推測だけでなく証明する必要があるからと思う。
《参考(ネット検索-帰納法)
帰納法とは、複数の事例から共通点を見出し、一般的な法則を見出そうとする論理的推論の方法である。
――ここまで》
4.2.2.演繹法
演繹法は前提から論理を積み上げて結論に到達する手法である。証明や論理的な文章に有効な手段と思う。
演繹法では前提条件が重要になる。前提条件が正として、論理を展開する。例えば、演繹法の1つである三段論法では次のように論理展開する。
大前提:全ての人間は死ぬ。
小前提:ソクラテスは人間である。
結論:故にソクラテスは死ぬ。
前提条件が違うと、論理展開が同じでも、違う結論が導かれる。だから、前提条件は重要になる。前提条件が正であると、演繹法による論理展開は必ず正となる。
文章で演繹法を使って論理的に記載していくと、反論の余地がないような説得力のある論理的な文章になる。三段論法は手軽で使いやすいと思う。
《参考(ネット検索-演繹法)
演繹法とは、すでに知られている法則(一般論・ルール)や前提から、階段を登っていくように論理を積み重ねて結論を出す考え方である。 構成としては、大前提→小前提→結論の形で論理が展開される。
--ここまで》
以上。