哲学は考える学問である。
世界の事象に対して考える学問である。
人間は考える動物である。抽象的に論理的に統計的に考えることができる唯一の動物である。これは他の動物から人間を区分する。
他の動物も、狩りの仕方などで考えることもあるかもしれない。しかし、他の動物は人間のように抽象的に論理的に考えることはできない。言葉で記録することもなく過去の統計情報も持たない。
つまり物を考えることは、人間の特徴であり、きわめて人間的なことである。
学問の中で特に考える学問に、数学と哲学がある。
数学は数字や数式を道具に、哲学は言葉や文章を道具に、物を考え世界の事象を解明していく。この2つの学問はよく似ていると思う。数学についてや、数学と哲学の相似性については、別の記事で書こうと思う。本記事では、哲学についてだけ記載する。
哲学は総合的な学問でもある。扱う対象が広い。人間が関与する世界や、人生に関係するテーマが、全て研究対象となる。イヌやネコが関与する世界は研究対象にしないが、人間が関与する世界は全て対象となる。専門色が強い学問に対比して、幅の広さも特徴の1つである。
哲学をやり始めると、知的好奇心の範囲が広がり、付随して教養の幅も広がっていく。
現代の学校教育では、哲学は数学や英語のように主要科目の扱いを受けておらず、隅っこのほうにいる。もう少し重宝されてもよいのではなかろうか。
1.独学で学んだ哲学
僕は独学で哲学を学んできた。参考までに僕の独学方法を記載する。
きっかけは、小学校高学年の頃である。
家にある百科事典を見て、ギリシャ哲学に憧れた。
生まれる時代を間違えたと思った。
僕も古代ギリシャに生まれて、ソクラテス、プラトン、アリストテレスと哲学を学び、語り合いをしたかった。
その頃から僕は自分の頭でも哲学的な課題について自然と考えるようになっていった。
学校では哲学は社会科のほんの一部でしかなく、数学や英語のように主要科目の扱いを受けていない。現代教育では隅っこのほうに追いやられている。江戸時代や明治維新の頃は、寺子屋や私塾で、論語などの思想や哲学も教えていたと思う。
僕は、高校3年生から大学入試で理系に属し、大学の学部は理工学部(電気電子情報工学科)であり、職業はIT関連である。哲学科の学生でも、お寺の住職でもない。
哲学を学んだところで、学校の成績が上がるわけでもなく、大学の単位が取れるわけでもない。会社での評価が上がるわけでもない。
それでも僕は、哲学を最も大切な教養として学び続けている。たぶん現代の学校では隅に追いやられている哲学に対して、価値を感じているからこそ学び続けているのだと思う。荒川静香はオリンピックで採点対象にもならないイナバウワーをあえて演技した。いいと思った。
勉強方法はいたってシンプルである。常識を無視して一から自分の頭で考えることと、過去の哲学書や文豪の書いた書物を読むことである。
シンプルに哲学者が書いた書物を読む。ニーチェやショーペンハウワーや老子などが書き残した書物を読む。
また、文豪の書いた小説や詩を読む。ゲーテやヘルマン・ヘッセのような文豪の小説は、哲学的で奥深く、著者の思想が小説の各所に埋め込まれている。
また、司馬遼太郎のような歴史小説も、時代を問わずに普遍的に人々が考え続けてきたテーマについてヒントをくれる。
これらの書物を読むことが勉強方法である。
過去の賢人が書いた書物はちゃんと書かれている。人類で最も賢い人たちが書いた書物ある。論理矛盾もないし、正しい言葉で正しく書かれている。どこまで受け取れるかは、読者のスキル次第となる。
スキルが向上するに従い、そのスキルレベルに応じて、より多くのことを学び取ることができる。分かることが増えることは楽しいことである。スキルアップのモチベーションにもなる。
2.哲学は誰でも何時でも何処でもできる
哲学では人間の普遍的なテーマについて考える。死とは、よく生きるとは、人間とは、社会とは、幸せとは、などのテーマを自分で考える。テーマは誰もが経験する身近なものである。専門家である必要はない。誰にでも出来る。
哲学は何時でも何処でもできる。別に大学の研究室でなくてもよい。散歩しながら考えてもいいし、掃除しながら考えてもいいし、電車でつり革につかまりながら考えてもいいし、布団の中で寝ていない時間に考えてもいいし、いつでもどこでもできる。
哲学者は散歩する習慣のある人が多い。研究室や書斎でなく、散歩中にアイデアを考えている人も多い。僕の場合は、散歩中や布団の中でイメージが湧くことが多い。
つまり、誰でも何時でも何処でもできる。
3.哲学の歴史 最古の学問
哲学は2500年以上の歴史を持つ、人類最古の学問の1つである。
ギリシアで哲学が生まれたのは紀元前6世紀頃である。
紀元前600年頃に活躍した古代ギリシャの哲学者タレスは、「万物の根源は水である」と説いた。
紀元前450年頃に活躍した古代ギリシャの哲学者ソクラテスは「無知の知」を説いた。また、多くの弟子を育てたギリシア哲学の第一人者として知られている。プラトンはソクラテスの弟子であり、アリストテレスはプラトンの弟子である。
東洋では、老子や孔子は紀元前6世紀頃の人物とされる。
哲学は世界の根源や原理を人間の知性で解明しようという人類の試みから誕生したのではないかと思う。他の動物にはない、知のチャレンジといってもいいかもしれない。
その心は学問そのものの精神と重なる。学問の始祖、源流ではないかとさえ思う。
学問の歴史を振り返ると、数により世界を解明するために数学が生まれた。産業技術の進歩により、様々な科学が誕生した。グローバル化の波により、英語などの外国語が主要科目の1つとなった。情報革命により、今後プログラミングなどのIT技術も主要科目の1つになるかもしれない。
時代が進み様々な学問が誕生する中で、哲学は最初からそこに在った。そして今もある。最古の学問である。
長い歴史に淘汰されず残り続け、幾多の歴史的賢人達が興味を持ち、その秘伝の知恵を継ぎ足してきた学問である。
人類の知の宝庫である。と思う。
4.哲学の未来 将来性予測
現代の教育制度では、隅に追いやられている哲学ではあるが、今後、需要が増していくのではないかと思う。
今、産業構造の変化が起きていて、IT化や情報革命が進み、AIの登場により一部の仕事が淘汰され新たな仕事が生まれ、自動化も進んでいくと想定される。
AI化が進む世の中で、残り必要とされる仕事は何か。僕は人を扱う仕事は有望と見ている。教育や医療やエンターテイメントなど、人を相手にする仕事は残ると思われる。
AIが考えた映画やお笑いを見ても面白くない。作家などもよいと思う。AIが書いた小説や本を読んでも面白くも参考にもならない。
一方で人がやらなくてもよい仕事は、機械化が進みAIに交代していくと考えられる。
そうした中で、そもそも人間とは何か、人間がやるべきことは何か、人間的であるとはどういうことか、などの根源的な問いをもう一度考え直す時が、そのうち来ると思われる。
その時、哲学はその重要性が再認識されることになると思う。
最古の歴史から行われてきたその営みに、何か懐しさを感じたり、大事なことを思い出すかもしれない。
以上。