僕は、野球をやっていたから、イチロー選手や大谷選手には注目している。
日本が誇るメジャーリーガーである。歴史的な野球選手でもあると思う。
イチロー山(イチローさん)と大谷山 (大谷サン)に対する僕の見方を「人生の山登り」の参考事例として記載する。
ご本人の思いと同じかは定かではない。僕の考察である。
イチロー山
イチロー氏の言葉で、最も印象に残っている言葉がある。
《参考文献(イチロー氏の言葉)
小さなことを積み重ねることが、とんでもない所へ行く、ただ一つの道。
――ここまで参考文献》
イチロー氏は、とんでもない所に行った。日本人だけでなく、世界のメジャーリーガーでも到達できない、イチロー氏しか登れない所まで行った。
イチロー氏は、とんでもない所を目標にしていたのではなく、日々の自己管理や、ヒット1本1本を積み重ねることだけを考えていたと、そう推察する。
本人に聞くことはできない。あくまで推察ではあるが、この言葉を僕はそう理解した。
イチロー氏の引退試合
引退試合は、日本の東京ドームで行われた。メジャーリーグの試合であったが、メジャーが特別な舞台を用意してくれたのである。
僕はその試合を、その後の記者会見も深夜まで及んだが、TVでずっと見ていた。
イチロー氏の野球人生の目的が、この試合に現れると考えていた。
イチロー氏は、この試合で現役の野球選手としての幕を引いたが、球場にいた満員の野球ファンが、最高の声援と感謝とリスペクトをイチロー氏へ送っていた。
この試合に参加していたメジャーリーガーも、敵も味方も含め、感謝とリスペクトをイチロー氏へ送っていた。この日、日米通算4367安打が確定した。
日本プロ野球の名球会入りの基準が、通算2000安打である。4367安打は、とんでもない数字である。
イチロー氏はこの日の光景に、野球人生の目的と意味を感じ取ったと、僭越ながらそう推察した。世界中の野球ファンから愛され、世界中の野球選手からリスペクトされ目標とされる、そんな野球選手となったのである。
日本人野球選手が、メジャーリーグの歴史に記録と記憶を刻んだ。
この引退試合の出来事が、イチロー山の頂きを物語っているとそう感じながら、イチロー氏の現役最後のプレーを目に焼き付けていた。この時、僕は一人の野球少年になっていた。
大谷山
大谷選手は2021年のシーズンで、投手として9勝、打者として本塁打46本を放ち、メジャーリーグでMVPを獲得した。日本人のMVPはイチロー氏以来である。
僕はBSTVを録画して、大谷選手の試合は、よく見ていた。
MVPの記者会見でアメリカの記者から「あなたの到達目標は、投手として何勝ですか。ホームランは何本打ちたいですか」というようなことを問われた時に大谷選手はこう答えた。
「具体的な数字はありません。来シーズン、怪我なく、ベストを尽くだけです」といった旨のことを話していた。
大谷選手でも、自分がどこに到達するかは分からない。来シーズンに向けて、よいパフォーマンスが発揮するために、どうすればよいかだけを考えているに違いない。
また、目標とは具体的なものでなく、アバウトなものでよいとも言っていた。世界一の野球選手になりたいといったアバウトなものだ。
大谷山は、高そうな山だ。彼ならエベレストより高い1万メートル級の山に登るかもしれない。だが、怪我をして2000メートルくらいの所で野球人生を終えるかもしれない。
それは、誰にも分からないし、大谷選手にも分からない。
大谷選手の発言から、大谷選手も来シーズンや、来シーズンに向けた準備など、それぐらいのスパンで、自分が何をすべきかを考えて、大谷山の山道を登ろうとしていると、そう推察した。
大谷選手は、腕の靭帯の怪我でトミージョン手術をして、バットを振れない期間に、下半身のトレーニングをしたり、ピッチングマシンの球筋を目で見る練習をしていた。彼は今の自分に出来ることを考えて、実行している。
人生の山登りの思想について、イチロー氏とも、大谷サンとも、答え合わせができた気がした。
青い鳥と自分探し
僕がこの記事を書こうと思った理由の1つだが、「自分が何をしたいか分からない」「人生が分からない」「自分探しをしているが、自分が見つからない」といったことで、あまり悩まなくてもよいのではないかと思う。
「人生が分からない」と思い詰めて、華厳の滝や、電車などに、飛び込まなくてもよいのではないかと思う。
もし目標を持つとしたら、遠い目標は、大谷サンが言うように、アバウトなものでよいと思う。優しい人になりたい、賢い人になりたい、心身を健康にしたいくらいでよいと思う。
近い目標は、今年の目標などの目の前のスパンで、身近のもの、今やるべきと考えたことを目標にすればよい。
自分を探しに遠いところへ出かけたり、青い鳥を追いかけなくてもよいのではないかということである。
今やるべきことをやり続けたほうが、目の前の道を、とりあえず、前へ上へ進んだほうが、自分の道が見えてくる。まだ見えてなくても進んではいる。
つまり、問うても分からないことで悩まなくもよいのではないかということである。
以上。