無知の知について

無知の知とは、哲学の祖とも評されるソクラテスの有名な言葉である。この言葉についての僕の見解を記載する。ソクラテスは子供の頃から百科事典などで知っていた。無知の知についても、言葉の意味は知っていたが、正直なところ、無知の知が、何故そんなに重要なのかよく分からなかった。しかし、この言葉はずっと気になっていて、自分なりに理解しようと考え続けてもいた。大人になり、30代~40代の頃に、ようやく自分なりの答えが出たので、それについて記載する。個人的な見解なので、一般的な哲学解説書の説明とは少し違うかもしれない。参考意見として、個人的見解を記載する。

1.無知の知とは

無知の知とは、賢くなるためには「自分が無知であることを自覚し、知っているつもりにならないほうがよいですよ」といった主旨のことで、ソクラテス哲学の重要な柱となる考え方である。詳細は大変有名な言葉なので、googleを検索すれば、多くの参考情報にアクセスできる。

《参考文献(google検索)

・「無知の知」(または「不知の自覚」)とは自分に知識がないことを自覚するという概念です。「自分に知識がないことに気づいた者は、それに気づかない者よりも賢い」ということを意味しています。

・自らの無知を自覚することが真の認識に至る道であるとする、ソクラテスの真理探究への基本になる考え方。

――ここまで参考文献》

2.子供の頃の疑問

ボクの子供の頃の理解は、「知識や学があっても驕らずに、謙虚になりましょう」という意味で考えていた。当り前のことで、何故そんなに重要な考えなのか、よく分からなかった。平家物語の「驕れる者久しからず」という故事成語とも大差ない。

3.大人になって気づいたこと

僕は大学卒業後も、独学で生涯学習を続けている。

職はIT技術関連だから、仕事に必要なIT知識は、勉強する。例えば、若い頃は、プログラミングなどの技術関連の本をよく読んだ。IPA情報処理技術者試験等の資格の勉強もした。IT関連は職業義務として努力して勉強した。そして、仕事とは関係なくプライベートな趣味では、膨大な量の、果てしのない読書の旅を続けている。

趣味の読書は知的好奇心の赴くままに読んでいる。読書に必要な労力はTVを見るのとたいして変わらず、努力は必要ない。ジャンルは広範囲に及ぶ。10代~30代の頃は、小説や文学・歴史・心理などをよく読んだ。40代の頃は、株をきっかけに経済関連の本や、健康志向により医学関連の本をよく読んだ。そして、哲学関連は、どの年代でもずっと読み続けている。

インプットだけでなく、自分で物を考える思索活動もずっと続けている。思索も努力を必要としない。自然に行われる。

つまり、年を重ねるごとに、僕の知(知識や教養)は増加している。昔より今のほうが、少しは賢くなっていると思う。

一方で、無知の知はどうだろうか。年を重ねるごとに、僕の無知の知も増加している。30代~40代の頃に、そのことに気づいた。無知の知は、知(知識や教養)の量に比例して増加する類のものだと。昔より今のほうが、より無知を自覚するようになった。

このことから、無知の知について、自分なりに次のように整理し、仮設を立てた。次章で述べる。

4.僕の仮説

4.1.仮説とモデル図

頭の中のイメージを、概念的なモデル図に示す。

まず、世界には、人間が言語や感性で認識できる世界と、認識できない世界がある。人間の認識能力には限界がある。認識の外の領域を、グレー色で図に示した。。

次に、人間が認識できる世界には、自分が知っている世界(知の領域)と、自分が知らない世界(無知の領域)に分けることができる。知の領域を黄色、無知の領域を青色で図に示した。

このモデル図では、知の領域と無知の領域の境界部分が存在する。緑色で図に示した。この緑の領域(知と無知の境界域)こそが、無知の知であると考えた。

そして、仮説を立てた。

 【仮説】無知の知として自覚可能な認識の範囲は、知と無知の境界域に存在する。

この仮説は、質問を例にすると分かりやすい。ある事について質問を行うには、その事をある程度理解している必要がある。理解できている点と、理解できていない点があり、理解できていない点が不明点となり、質問事項となる。この場合、質問者は不明点を無知の知として自覚できているから、質問が可能となる。

全く理解していない人は質問自体ができない。例えば、微分積分をまだ学習していない小学1年生に、微分積分に関する質問はできない。

また、自分なりに全て理解した人も質問しない。既知のことは、無知の知として自覚しない。

つまり、無知の知は、知と無知の境界でしか自覚できない。モデル図はそのことを示している。

4.2.仮説による無知の知の説明

モデル図において、知(知識や教養)の領域を比喩的に、円で表現する。ある人の知の領域を、その人を円の中心とした円で表現する。ある人の知(知識や教養)が増加し、知の領域が大きくなると円が大きくなり、円周も大きくなる。

仮説により、円周が大きくなると、無知の知として自覚可能な認識の範囲も増加する。すなわち、知(知識や教養)が増加するほど、より多く無知を自覚する。これは、3章(3.大人になって気づいたこと)で述べた僕の経験則に矛盾しない。

また円周の理論から、逆も成り立つ。より多くの無知を自覚する者は、円周の大きい、より大きな円(知)を有する。これは、1章(1.無知の知とは)の参考文献で紹介した「自分に知識がないことに気づいた者は、それに気づかない者よりも賢い」に矛盾しない。

また無知の知の自覚により、円周部分の知と無知の境界を埋める努力を行うことで、円(知)は更に大きくなり、その円周部分(無知の知)も更に大きくなる。これを繰り返すことで、円(知)が段々と大きくなり、成長を続ける。これは、1章(1.無知の知とは)の参考文献で紹介した「自らの無知を自覚することが真の認識に至る道であるとする、ソクラテスの真理探究への基本になる考え方」に矛盾しない。

このように、仮説とモデル図により、「無知の知」を上手く説明することができる。

5.何故重要か、その効用

子供の頃には「無知の知」が、何故そんなに重要か分からなかった。大人になり経験からも、少しずつ分かってきた。無知の知の効用について記載する。

5.1.スキルアップ

僕は、24年間以上、IT業界で仕事をしている。長年、仕事をやっていると、仕事が出来るように改善を続ける人と、職歴は長くても進歩しない人がいる。その差は大きい。その差の原因は何か。その原因は、無知の知にも通じる。

改善する人は、自分の無知を前提に、自己分析する。自分のダメなところ(改善すべき点)を分析する。そして、自分に出来る改善を考えて変えていく。これを繰り返し、進歩していく。

一方で、改善しない人、進歩しない人は自己分析しない。自分は問題ない(悪くない)前提に立ち、失敗の原因を他人や外部のせいにする。あるいは、失敗を仕方ないことにするために、言い訳を探し求める。自分にダメなところ(改善すべき点)がないから、自分が変わる必要がない。変わらないから進歩もしない。

自分の無知を素直に認めることは、個人のスキルアップにおいても重要と思う。

心理学のダニング・クルーガー効果でも、優秀でない人は自分の能力を実力以上に高く見積もり、優秀な人は実力より自分を低く見積もる傾向があることが、報告されている。ダニング・クルーガー効果も無知の知に通じる。

《参考文献(ダニング・クルーガー効果―google検索)

1999年アメリカのコーネル大学のダニングとクルーガーによって提唱された仮説です。ダニング・クルーガー効果とは、能力の成長の過程において未熟な人ほど自身を過大評価し、実際の実力よりも高く認識してしまう認知バイアスのことを言います。

ダニングとクルーガーが学生に対して実験を行ったところ、実際の点数が低いほど自己評価が高く、実際の点数が高いほど自己評価が低いとの実験結果が報告されました。

――ここまで参考文献》

5.2.広がる教養格差

「富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなる」という言葉がある。お金や経済にも当てはまると思うが、教養にも当てはまる言葉と思う。

教養に富むものは、無知の自覚により、知らないことが知りたくなり、ますます教養が広がっていく。例えば、読書でいうと、ある本を読むと、得た知識をもっと知りたくなり、別の本を読む。そして、読書の幅や量が広がっていく。

5.3.地球環境問題 自然と人間の関係

最後に、大きなスコープで考えてみる。無知の知は、自然と人間の関係にも通じる。

人間は自然界の全てを認識することはできない。モデル図を自然界に置き換えると、自然界は、認識外の領域(人間が認識できない世界)も包含する。認識外の領域は広大であり、人間は自然界のほんの一部分を認識しているに過ぎない。それは、ニュートンの言葉からも伺い知ることができる。

《参考文献(ニュートンの言葉)

私は、海辺で遊んでいる少年のようである。ときおり、普通のものよりもなめらかな小石やかわいい貝殻を見つけて夢中になっている。真理の大海は、すべてが未発見のまま、目の前に広がっているというのに。

--ここまで参考文献》

急務とされる地球環境問題に対して、無知の知は、良きヒントになると思う。地球環境問題とは、自然と人間との関係の見直し(軌道修正)と言い換えることもできる。人間の、足るを知らない過剰な欲、自覚していない無知、傲慢で過大な自己評価などにより、自然と人間の関係が壊れ、不調和が発生し、地球環境のバランスが崩れてきていると考える。そして、異常気象など人類の身に災難が降りかかる段になってようやく、SDGsなどを掲げ、自然との関係を修復する重要性を、世界中の人々が提唱し始めた情勢と思う。

こういった時代の流れや背景からも、自然と人間との関係の見直し(原点回帰)において、無知の知は、重要なヒントになるのではないかと考える。

日本神道やアイヌ文化の精神には、元々、自然を畏れ敬う精神が流れていた。自然に対して、人間が無知であることも、古代人は(哲学や心理学がなくても)感性で自覚していたと思う。

文明や科学技術が発達し、現代人は古代人より、少しは賢くなり知識も増えたかもしれない。しかし、その程度の進歩で、自然と人間の位置関係が変わるだろうか。僕は変わらないと思う。自然の大きさからすると、人類の進歩は、まだその程度だと思う。過大評価する段階にない。

文明や科学技術が発展していくこと、人類の英知が進展していくことは、素晴らしいことと思う。しかし一方で、人類が発展するほどに、より一層に自然に対する人類の無知を自覚し、自然を敬うことを忘れないことが重要に思う。

地球環境問題において、人類は自然に対する己の実力を、高く見積もるだろうか。低く見積もるだろうか。

低く見積もったほうが、賢いと僕は思う。

以上。